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大橋家 日通との戦い
父は日通に追い詰められ、自らの命を絶ちました。これは父の名誉を晴らすため、日通の実態を明るみにし、次の犠牲者を出さないよう始めた、私達と日通との戦いを綴った日記です。10年2月15日に安全配慮義務違反を認定され、父の名誉を晴らす事ができました。これからは、労働問題で苦しんでいる人達と、今も日通と戦っている人達への支援を趣旨とし、運営をしていきたいと思います。
尼崎アスベスト裁判 第16回期日(結審)の報告
2012年3月1日(木)午後1時15分から神戸地裁尼崎支部3階1号法廷において、第16回目の口頭弁論が、原告側の多数の傍聴者、クボタ側の弁護士がいなくて日通側の高野弁護士一人が着席のもとで開かれました。

原告と日通の最終準備書面などの確認の後、遺族のKさんから最後の意見陳述がありました。

「大切な家族を失いました。日通との交渉ではアスベスト運んだことを認めず、元従業員の証言で『運んでいたことを否定しない』と言い変えました。『見舞金規定を現職と同じように公平に適用してほしい』との交渉は、退職者だからと「部外者」扱い。そして、「弔慰金としてわずかな金額を一部の遺族に一方的に通告。人間らしく扱っていると思えません。日通に何度も足を運んでいるのに責任者が出て来ず返事もありません。被害者本人のHさんは交渉の途中に肺がんで亡くなりました。日通は、交渉の場で抱いていたHさんの遺影に見向きもせず手を合わせることもしませんでした。私の娘が中皮腫になり48歳で子どもを置いて死にました。H21年に提訴して3年、クボタは誠意があり和解しましたが、日通は「弔慰金以上のものは考えていない」という何の譲歩もない対応で誠実さに欠けるものでした。この裁判の勝訴がアスベスト被害者と家族の救済につながりますので裁判所の公平な判断をお願いします。」

この、涙声の陳述を、日通高野弁護士は、口と顎を突き出し渋い顔をして聴いていました。

最後に、裁判長が「これで弁論は終結し、判決は6月28日(木)午後1時10分」と告げられました。

閉廷後、敷地内で報告会がありました。

“村川弁護士”「クボタとは和解が成立した。日通は弔慰金(チョイ金?)以上の和解はできないと決裂。分離して6月28日に判決。121ページにわたる最終準備書面を同僚の証言を含め主張して提出した。日通は負けたら控訴するだろうが、社会的に追い詰めて行こう。」

“患者と家族の会”から「何もなかったのが裁判してクボタを動かした。」

“元同僚”から「これからが本勝負!」

“梅川さん”から「クボタに引き換え血も涙もない日通は一貫している。アスベストなどの問題を全日通労組は取り上げず、組合選挙に出たところ意見が削除されたり立候補を認めなかったので、全日通労組を相手に提訴し2度とも勝利したが、今度は労使一体で、制度がある定年退職後の継続再雇用をしなかったので日通を相手に提訴した。社長に直接“会社に尽くした従業員のために、会社のためにも、株主のためにも、顧客のためにも、アスベストなどの問題を早急に解決せよ!”と追求することを考えている。」

いよいよ、頑なで血も涙もない日通を断罪する判決を期待して、ぜひ、6月28日(木)午後1時10分に、神戸地裁尼崎支部3階1号法廷へ支援傍聴に来てください。
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尼崎アスベスト裁判 第15回期日(証人尋問3日目=最終)の報告
2011年11月24日(木)午前10時30分から神戸地裁尼崎支部3階1号法廷において、延べ3日ある証人尋問の最後で、原告側証人の尋問が行なわれました。被告側弁護士はクボタ8人、日通1人で原告側弁護士は4人です。
最初のKさんが、「耳が遠いので大きい声でお願いします」と言ったので、裁判官は大きな声になり、よく傍聴席まで聞こえました。

〔・は原告弁護士、ゝは日通弁護士、ゞはクボタ弁護士の尋問、ёは裁判官の質問に答えて〕

まず、Koさん(被害者と同時期に働いていた元日通小型運転手)
・大物車庫に出勤し行き先が書いてある面着の札を見て(一次操配)、作業担当店所に行き詳しい作業内容の指示を受け(二次操配)、運行作業する。
・被災者5人と会ったことがある。クボタ神崎工場で働いていた。
・クボタ神崎工場では、ピット作業(石綿のカスをスコップで一輪車に積み運ぶ)、ハイ付け(石綿袋を組み合わせて積み上げて行く)、駅出し(トラックで駅まで運ぶ)などをしていた。
・ピットが主な作業で、積卸は手伝いだった。
・石綿原料の積卸は、トラックが2台入って来て、50kgの麻袋を2~3人で作業した。
・トラックの荷台から麻袋を足下に手カギで引っ張り落としていた。破れていたら粉塵が立つ。
・麻袋が、三分の一は破れていて、白い石綿が顔を出し見える。
・ハイ付けは、10本ハイ(タテ6本、ヨコ4本、交互に、170cmより少し高い)。
・昭和31年まではフォークリフトなく、手カギとノンコ(手カギより小さいもの)で、3~4人で作業。
・粉塵が出ているので口にタオルをまいていた。チクチクとして白くなった。
・窓はあったが、換気装置はわからない。防塵マスクはなく、石綿の危険性は教えてもらえなかった。
・年1回の健康診断で、左胸に胸膜クラークが見つかった。
・クボタ以外に石綿は扱っていない。
ゝトラックから卸す時間は小一時間。
ゝ年一回の肺に関する検査をしている。
ゝ健康管理手帳はもらっていない。薬はもらっていない。労災補償はもらっていない。
ゞピットとは、生産過程で水とセメント等の混じった白い泥状のものができるからスコップですくって処分。
ゞ倉庫作業の手伝いは、2日に1回くらい。
ゞ麻袋(ドンゴロス)は、茶色で、40×80cm、50kg
ゞ左手にノンコ、右手に手カギ。
ё一日に4台作業、4時間くらい手伝うことあった。
ё毎日ではない。
ё積卸する前に、大破1割+小破2割=3割は必ず破れていた。
ёトラックが入って来て作業すると、こぼれていた石綿の粉塵が立っていた。
ё危険なものという認識がなかったので会社にマスクなど要求していない。

次に、Hさん(肺がんで亡くなられた元日通運転手の妻)
・左手の甲に手カギでケガをした傷跡があった。
・白く汚れていた作業服を自宅に持ち帰り洗濯していた。
・日通を辞めた理由は、仕事がきつく、汚れが多く、将来考えて市バスへ転職。
・平成16年9月に肺がん手術→(麻酔が切れると幻覚症状が出た)→抗がん剤投与→(食欲不振、嘔吐、倦怠感)→再発→(脚のふらつき、嘔吐)→脳に転移→ガンマ線で小さくして手術→肋骨と骨盤に転移→抗がん剤投与→(胸に刺し込むような痛み)→食べれなくなる→平成19年8月に自宅で倒れ救急車で運ばれ死亡。
・モルヒネを使用すると酷い便秘になり、異常行動で9ヶ月、心身とも疲れた。
・労災申請した。
・タオルをマスク代わりにしていた。
・日通との交渉に夫も立ち会ったことがあったが、お見舞いの一つもなかった。夫が死んで遺影を持って行ったとき、会釈も手を合わせることもなく、「部外者だ」と言われた。
ゝ手術後、医師から「アスベストを扱っていなかったか」は聞かれなかった。
ゝ伊丹労基署は、最初はタバコと言っていたが、手術後は言わなくなり、労災認定を受けた。
ゞ作業服の持ち帰りは何日かに一度だったが必ず汚れていた。当時その汚れが何か分からなかった。
ゞ肺がんになってから、夫からいろいろ話を聞いた。
ゞトラックの上で、ドンゴロスに手カギで穴が開き、髪の毛や鼻の穴まで真っ白になった。
ゞ神戸でトラック積み込み→クボタで取り卸し。

昼休憩後午後から、Kiさん(中皮腫で亡くなられた元日通運転手の妻)
・日通尼崎港支店勤務。神戸港→クボタ神崎工場に石綿を運送。
・作業着の洗濯、白いホコリで真っ白。退職まで続いていた。
・阪神バスに転職(運転手~助役)→退職後、シルバーセンターへ。
・平成11年年11月に中皮腫と診断→抗がん剤→(毛が抜け、吐き気、だるい)→右肺全摘手術→(息苦し)→酸素ボンベを持ち歩き→(食べられない、眠れない、酸素ボンベ管を引っ掛けないようにトイレに付き添い)→右胸膿胸(膿が溜まるから吸い出すが次から次と溜まる)→痰が絡む→(呼吸が苦しい)→かわいそうで見ていられなかったから少しでも穏やかに最後を迎えて欲しいと医師にお願いしモルヒネを投与してもらった→平成12年6月死亡。
・平成17年にクボタのニュースを見て、アスベストが原因と分かった。
・労災不認定→新法で認定→日通に被害交渉で「退職者」だからと話しに乗ってもらえず、「アスベストじゃなくお米か何か運んでたんじゃないんですか?」と言われた。
・会社のために働いて40~50年後に発病で生命を落とした。それを「退職者だから」と・・残念!
・日通もクボタも誠意をもって責任を果たしてもらいたい。
・呼吸困難は不安と恐怖で一杯。
・看病した家族は辛い思いをして発病の不安を抱えて生活している。
ゝクボタから1kmの尼崎の潮江に住んでいたことがある。
ゞ夫から、勤務中から「クボタで仕事をしている。石綿を扱っている」と何度も聞いていた。
ゞ夫から「クボタ神崎工場の倉庫は、白いホコリが舞っている」と聞いていた。
ゞ診断のときはアスベストが原因だとは分からなかった。
ёクボタ神崎工場以外は聞いていない。製品をどこに運ぶとかは聞いていない。
ё日通を退職する前に仕事内容が変わるという話は、聞いていない。
ё給料の歩合制が変わるということで転職した。
ё作業着はほとんど毎日持って帰って来た。
ゝ作業着の汚れに、石綿以外もあったが、石綿が多い。

そして、Cさん(中皮腫で亡くなられた元日通大型運転手の妻で娘も中皮腫で亡くした)
・平成16年12月、夫は脚とお腹が膨らんで、平成17年2月に中皮腫と診断された。
・アスベストを取り扱う仕事していたとは知らなかった。医師から「アスベスト扱ってなかったか?」と聞かれ、夫に尋ねたら「「アスベストを運んでいた」と言った。
・医師から治らない病気だからと自宅療養。息子が薬を与えた。
・私は、メニエルがひどくなった。
・夫は腎臓が悪く、抗がん剤が打てなかった。
・ベッド上でのた打ち回って我慢していた。
・我慢強い人だったが、夫は苦しくて一度だけ「帰れ!」と言ったことがある。
・手、脚、お腹をさすっていた。
・平成17年4月30日死去。おかゆ「うめ~」と言って、ニコッと笑って・・・死んだ。
・マスコミの取材に、夫は「わしが生き証人になるから」と応じた。
・平成19年12月、娘も中皮腫に。娘は「子どものために死ねない」と二人抱き合って泣いた。
・平成20年8月、娘は48歳で死んだ。
・日通は、責任ある上の人が来んと、若い人だけ来て、何も言わない。
・日通とクボタに謝罪して欲しい。
ゝ結婚し尼崎市御園町に一年半住んで、娘はそのとき生まれた。
ゞ夫は、仕事の事は何も話さなかった。
ゞ朝日放送の取材から、夫の話を一生懸命聞き、勉強した。
ゞアスベストはクボタしか運んでいない。
ゞ夫は、日通以外の勤め先も話しなかった。
ゞ日通を辞めた理由は、明石に住んでいて通勤がしんどいと近くの会社に転職した。
ё共同住宅だったから、洗濯場も共同で、作業着を持って帰らなかった。
ё一度だけ、黄土緑色の作業着を娘に見せるために持ち帰ったことがある。
ёシャツ、パンツ、靴下、タオル、私の下着、娘のオムツを大きいタライで下洗いして共同洗場で洗濯。
ё私は、毎年レントゲン検査しているが、今のところ問題ない。

最後に、Oさん(肺がんで亡くなられた元日通大型運転手の妻)
・尼崎港→神戸の倉庫で積んで→クボタ神崎工場で卸す。
・ドンゴロスに入っていた。手カギ、粉塵舞い上がり、耳穴、鼻穴、全部真っ白になった。
・作業服は持ち帰らず、会社で洗濯していた。
・タバコは吸っていない。
・平成13年暮れ、咳が止まらなくなり、右肺に影があり肺がんと診断→平成14年4月25日手術。
・同年6月中頃から、熱が出て、息苦しく、日を追うごとに悪くなった。肺炎も起こった→食欲なく、倦怠感、もの言いにくくなった→息苦しく、酸素吸入→死去。
・「家に帰ってゆっくりしたい」叶わなかった。
・クボタショックで、労災申請。
・日通は、在職証明すらしなかった。証言もらって労災申請した。
ゝ在職中の定期診断で異常はなかった。
ゝ労災の受給額は?(こんな質問をして、日通弁護士は傍聴席から顰蹙を買っていた)
ゞ作業内容は、夫から直接聞いた。クボタで卸す。青、茶、白の石綿。
ゞ30年間で、ミツカン酢、フライアッシュ、アスベストの仕事をしていると在職中に聞いていた。
ゞ入浴は、日通大物車庫に浴場があった。
ゞレッカー車も乗っていたが、細かいことまで覚えていない。
ゞ3~4年に一ぺん検診しているが、私と子どもに異常は今のところない。

 以上で、すべての証人尋問が終わり、裁判長から、「最終準備書面を2月15日までに提出して3月1日(木)午後1時15分からの弁論で結審します。その前に、和解の可能性あるかどうか、12月26日午後3時に和解期日を設定します」と、説明があり、確認されました。

 閉廷後、敷地内で、報告ミニ集会があり、
 弁護士から「裁判所から和解案提示あると思うが、3月1日に結審し、判決はそれから3~4ヶ月かかるだろう」。 原告から「墓参りして臨んだ」「単語が出なかったが思ったことは言えた」「半分も三分の一も言えなかった。もっともっと言いたかった」「歯がゆい気持で一杯」「いい方向に向かうことを期待して」などの言葉があり、今西元全日通尼崎港分会委員長から「胸が痛む気持ち、当時、職場を知っている方が入院していたりして、何しろ40~50年前のこと、職場を語れる人を証人になってもらい、今日を迎えた。成果を出さなければいけない」、職場の問題を取り上げて声を上げたことで定年退職継続再雇用を拒否された梅川さんから「遺族の方々の証言を聞いて、日通は何と酷い会社か!と改めて思った、私も共に闘いって行きたい」と、勝利を確信しあいました。

尼崎アスベスト裁判 第13回期日(証人尋問) の報告
2011年10月13日(木)午前10時15分から神戸地裁尼崎支部3階1号法廷において、延べ3日ある証人尋問の最初で、原告側証人の尋問が行なわれました。

まず、Mさん(中皮腫で亡くなったSさんの妻)
・昭和43年から52年の間に日通尼崎港支店の小型トラック運転手をしていた夫から日通大物倉庫の大きなプラットホームでアスベストの仕事を始めた頃も仕事の話を毎日のように聞いていました。
「海上コンテナで週に2~3回来る。5~6名で1回2~3時間、多いときは3台来て丸1日かかる。アスベストはビニールに覆われていたが間からこぼれていた。ホームは風通しが悪くアスベストの粉塵がもうもうと舞っていた」
・昭和41年に子供が生まれていたので、作業服・タオル・靴下を子供が着るものと一緒に洗わないように言われていました。キラキラ光っていたアスベストは「チクチク痛く子供に良くないから」と。
・夫は、首・腕・手が赤く腫れ痒ゆそうにしていました。
・アスベストが危険だとは、日通から聞いていませんでした。
・平成13年に中皮腫と診断され、抗がん剤を飲み、髪の毛が抜け、吐き気で食欲がなくなり痩せ細り、胸膜を全摘手術しましたが、平成15年に亡くなりました。
・日通に、規定の補償を求めましたが、退職者は部外者と言われました。
*日通側からの反対尋問では、「アスベスト専門でなかった、アスベストの袋の大きさが記録と違う、退職後は健康だった」などと的外れな質問をしていた。
*クボタ側からの反対尋問では、「ホームには高い屋根があり壁が左にあった、車庫は露天、コンテナからアスベストを卸してホームに積み上げ、運ぶ時は大型トラックに積み替えてSさんは小型なので運んだことはない、尼崎杭瀬に20年くらい住んでいた(答え:尼崎クボタから近くない)、タバコは?(答え:1日1箱吸っていた)」などの質問をしていた。
*裁判官からの質問の答えでは、「アスベストの色や種類は聞いていない、アスベストを吸っていた時期は昭和43年から52年の間だった、赤く腫れたようになっていた」などが明らかにされた。

次に、Aさん(クボタ神崎工場へアスベストを運ぶ仕事をしていた日通尼崎港支店大型運転手)
・アスベストの運搬は週に2~3回、昭和36年~46年まで約10年間、大物車庫に出勤面着し神戸港で積み込みクボタ神崎工場へ平台にシートを被せて運ぶ。倉庫のハイ付け40段、倉庫手が手カギを使いコンベアに入れドテっと80㎝の落差があるトラックの荷台に落とし、運転手は荷台上でハイ付けをする、アスベストは目の粗いドンゴロス(麻袋、茶色、30kg)で表面が破れていたのが一杯あった。引っ張り放り投げて移動するたびにホコリが出る、換気はなかった、すごいホコリで自分のタオルで口を巻いた。破れた袋から荷台にこぼれたアスベストは箒で掃いて倉庫内に落とし、それを倉庫手が掃いて棄てる。すごいホコリで1時間くらい、宵積みもある。アスベストが危険だとは教えられていない、マスク着用指導受けてない。
*日通側からの反対尋問では、「クボタは昭和38年から契約してない(答え:昭和46年までしていたと認識している)、粉塵を吸ったら悪いと知っていたんですね?(あまりに当たり前なので、傍聴席からブーイング)、胸膜クラークで石綿肺ではない(答え:新しいのがあるから見せましょか?)、焼石炭粉も洩れますね?(答え:破れたら洩れる)、事務所にマスクが置いてあった(答え:ヘルメットは置いてあったが知らない)、Hさんはマスクをしていた(答え:個人的にしていた)、組合に言わなかったのか(答え:言えなかった)
*クボタ側からの反対尋問では、この事件で関係のない昭和50年からの海運倉庫での仕事を確認したあと、「それ(海運倉庫に異動する)までは尼崎港支店所属だが大物倉庫に出勤し面着-朝礼-体操していましたね、神戸港では何倉庫で大きさは?どのような仕事を?(答え:三井倉庫・三菱倉庫でクボタ神崎工場の4倍くらい、アスベストを高くハイ積み、トラックは1台づつ入り作業指示は倉庫会社の社員)、貨車は?(答え:アスベストはなかった、アスベストは嫌な仕事だったから覚えている)、(答え:昭和34年から2年余り『日通クボニ作業』でアスベスト製品の横持作業をしていた。クボタ神崎工場での作業は荷台の上での作業、ガーゼマスクを1回だけ着けたことがあるが自前で、ヘルメットだけ会社貸与で軍手・手カギも自前=これには尋問していた高野弁護士もビックリ!)、「四塩化チタン」など他の有害物質も扱っていましたね?(答え:「四塩化チタン」は知っています)
*裁判官からの質問の答えでは、「昭和38年から10年間とは鉄パイプを含めて、当時は痒いや腫れたはなかったが、定年退職してから出てきた、他の人もマスクをしていたのを見ていない」
*原告側の再質問で、「日通から防塵マスクの用意はありましたか?(答え:そんな物ありません)」
ここで、丁度正午になり、休憩を挟み、午後1時30分から再開されました。

最後に、Yさん(『日通クボニ作業事務職社員としてクボタ神崎工場内でアスベスト製品出荷業務に従事)
・昭和35年に『日通クボニ作業㈱』に入社し、昭和43年に『クボニ運送㈱』となり、クボタ神崎工場内事務所で昭和62年まで働いた。
・リストを受け取り、日通や山本運送他に車を手配。
・貨車で来た原料を倉庫に積卸の応援、月に1~3回、『日通クボニ作業』に作業員(貨車積要員)がいてた。
・アスベスト原料の運び込みで、クボタ正門左側の日通クボニ作業事務所の前を通って走る日通のトラックを障害物がなかったのでよく見えよく見ていた、石綿倉庫は原料倉庫で昭和43年頃までアスベスト原料を運んでいたのを見ていたが事務所が移動したので見えなくなった。
・(昭和38年に日通はアスベストの運搬をやめ、昭和38年~42年は山本運送で運んでいたと言っているが?)山本運送はアスベスト製品を運搬する業者だ。
・原料倉庫は扉が閉まっていた、ドンゴロスの目に手カギを入れて引っ張りながら動かす、パレットの上にアスベスト原料を積み、フォークリストで運ぶ。
・ドンゴロスが破れると粉塵に暴露した、タオルを巻かないと首の回りがチカチカする。
・クボタから、防塵マスク・水撒き・濃度測定・清掃・換気機器・危険指導など、まったくなかった。
・個々人がタオルを首筋に巻いていた。
・自分は「胸膜クラーク」に罹患している。
・アスベストが原因の死亡(中皮腫・肺がん)は、貨車積要員(現場監督)が現職の間に2人、退職者2人、梱包場内作業女性1人、アスベスト原料を運んでいた運転手の奥さんが1人洗濯や風呂で発病し死亡、他に中皮腫の疑いで亡くなった人いてる、アスベスト原料倉庫での積卸で粉塵を吸っているから健康被害があり原因は分かっている。
・自分も、中皮腫、肺がん、合併症にかかる恐れがあり、怖い。
*クボタ側からの反対尋問での答えは、「ほとんど構内横持作業だった、入社した昭和35年頃のアスベスト製品出荷は日通がしていた。出荷は貨車とトラック、原料を入れる仕事、日通の事務所があり日通クボニ作業と合同で使っていた、単に事務ではなく付属する仕事をしていた、昭和43年までに「ストライキやられたら困る」と日通の事務所が撤退した、日通が撤退してから日通クボニ作業→クボニ運送になった、貨車で運ばれてきた時(7両の内1両だけに石綿原料が入ってくる)に手伝っている、トラックは手伝ってないが毎日ではないがよく見ている、扉を開けてトラックやフォークリフトが出てくるとホコリが倉庫の中から舞って出る」
*日通側からの反対尋問での答えは、「昭和35年から車と出荷の手配、人手が不足の時は第一線の現場に出て行った、月に2~3回(1回1時間以内)は石綿袋(ドンゴロス)を触った、昭和62年までクボタ神崎工場にいて中に入ったことあり働いている姿を見たがマスクをしていた記憶はない、クボタ社員も原料倉庫の中でマスクはしていない、工場内にマスクの備え付けはない、昭和46年よりあとに住建材を加工するときからマスクを付け出した」
*原告側の再質問で、「日通がアスベスト原料を運んでいたが、山本運送を1回だけ見たときは、ビックリした、何でか?珍しかった、山本運送は製品輸送していたから、原料輸送を日通が指示したと思う」
*裁判官から、昭和36年の航空写真でクボニの事務所の移動前と移動後の位置を確認、「日通は昭和35年から移動するまではポツリポツリあったが昭和43年に完全撤退、アスベスト製品に関して日通から日通クボニ作業に移ってから①日通②山本運送③クボタ出入業者の順に運送依頼(委託=下請)した、昭和43年以降も日通に依頼した、日通は破損が少ないから。アスベスト原料に関しては昭和43年以降クボニはタッチしていない」

午後3時頃に閉廷後、弁護からまとめがあり、
「Mさんには妻として①夫の話で間接的に立証②闘病生活の大変さ、Aさんには作業していた立場から、Yさんには貨車積要員の応援をしてクボタ社員からここに置けと指示されていたことなどを証言してもらった」
最後に、Kさん(元全日通労組尼崎港分会委員長、元兵庫県会議員)から、「しっかり証言していただいた、無念を晴らしていただきたい」と締めくくられました。


【証人尋問】
☆ 10月13日(木)10:15~17:00---原告側(済)
★ 11月10日(木)10:15~17:00---被告側
☆ 11月24日(木)10:15~17:00---原告

【結審】予定
☆ 1月

【判決】予定
☆ 3月


ぜひ、支援の傍聴参加をお願いします。

尼崎アスベスト裁判 第12回口頭弁論の報告
8月25日(木)午前11時から神戸地裁尼崎支部3階1号法廷で、第12回目の口頭弁論が開かれ、いよいよ佳境に入り、証人尋問などの日程が決まりました。

【証人尋問】
☆ 10月13日(木)10:15~17:00---原告側
★ 11月10日(木)10:15~17:00---被告側
☆ 11月24日(木)10:15~17:00---原告

【結審】
☆ 1月

【判決】
☆ 3月

神戸地裁
尼崎支部3階1号法廷
(JR立花駅から徒歩15分)
尼崎アスベスト裁判 第11回口頭弁論の報告
 5月26日(木)午前11時から神戸地裁尼崎支部3階1号法廷で、第11回目の口頭弁論が開かれました。
裁判長が原告からと被告からの書面を確認したあと、「次回までに人証(証人)を検討し、次回期日を8月25日(木)午前11時、その前に進行協議を当日午前10時30分から行ない、書面は1週間前に提出」と告げられました。

 閉廷後、尼崎安全センターのSさんの進行で、裁判の流れを村川弁護士から聞きました。
「原告から三井倉庫判決を踏まえた反論の準備書面を提出。クボタからの労基署労災関係書類全部の提出申立を裁判所が採用したので、それを踏まえてクボタから主張があるかもしれない。日通は、原発事故に絡めて『当時は危険性がよく分からなかった』?と主張。裁判長は、『証人尋問に入りましょう、次回までに書面を出してください』とのことなので、秋以降には証人尋問かな?原告からは①大変な看病をした遺族②仕事内容が分かっている人の2名を考えていて、次回に陳述書を出す予定。」

 そのあと、2~3質問があり、「意味ある反論を何度もする必要があるからどうしても裁判が長引く」「弁論準備のあと口頭弁論は結論だけ言うのでたった3分になる」と弁護士さんの説明でした。

 また、「裁判長の声が小さいのでせっかく傍聴に来ても聞こえない」との率直な声も出されました。

 最後に、組合役員選挙で立候補の自由を奪った全日通労組に対する裁判の原告から「全日通は、地裁で負けたあと意地で控訴してきました。控訴審は6月22日で、粘り強く闘います」「日通は社長が変わりました。6月29日の株主総会アピール行動に今年も行きます」と、報告がありました。

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