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大橋家 日通との戦い
父は日通に追い詰められ、自らの命を絶ちました。これは父の名誉を晴らすため、日通の実態を明るみにし、次の犠牲者を出さないよう始めた、私達と日通との戦いを綴った日記です。10年2月15日に安全配慮義務違反を認定され、父の名誉を晴らす事ができました。これからは、労働問題で苦しんでいる人達と、今も日通と戦っている人達への支援を趣旨とし、運営をしていきたいと思います。
尼崎アスベスト裁判 第16回期日(結審)の報告
2012年3月1日(木)午後1時15分から神戸地裁尼崎支部3階1号法廷において、第16回目の口頭弁論が、原告側の多数の傍聴者、クボタ側の弁護士がいなくて日通側の高野弁護士一人が着席のもとで開かれました。

原告と日通の最終準備書面などの確認の後、遺族のKさんから最後の意見陳述がありました。

「大切な家族を失いました。日通との交渉ではアスベスト運んだことを認めず、元従業員の証言で『運んでいたことを否定しない』と言い変えました。『見舞金規定を現職と同じように公平に適用してほしい』との交渉は、退職者だからと「部外者」扱い。そして、「弔慰金としてわずかな金額を一部の遺族に一方的に通告。人間らしく扱っていると思えません。日通に何度も足を運んでいるのに責任者が出て来ず返事もありません。被害者本人のHさんは交渉の途中に肺がんで亡くなりました。日通は、交渉の場で抱いていたHさんの遺影に見向きもせず手を合わせることもしませんでした。私の娘が中皮腫になり48歳で子どもを置いて死にました。H21年に提訴して3年、クボタは誠意があり和解しましたが、日通は「弔慰金以上のものは考えていない」という何の譲歩もない対応で誠実さに欠けるものでした。この裁判の勝訴がアスベスト被害者と家族の救済につながりますので裁判所の公平な判断をお願いします。」

この、涙声の陳述を、日通高野弁護士は、口と顎を突き出し渋い顔をして聴いていました。

最後に、裁判長が「これで弁論は終結し、判決は6月28日(木)午後1時10分」と告げられました。

閉廷後、敷地内で報告会がありました。

“村川弁護士”「クボタとは和解が成立した。日通は弔慰金(チョイ金?)以上の和解はできないと決裂。分離して6月28日に判決。121ページにわたる最終準備書面を同僚の証言を含め主張して提出した。日通は負けたら控訴するだろうが、社会的に追い詰めて行こう。」

“患者と家族の会”から「何もなかったのが裁判してクボタを動かした。」

“元同僚”から「これからが本勝負!」

“梅川さん”から「クボタに引き換え血も涙もない日通は一貫している。アスベストなどの問題を全日通労組は取り上げず、組合選挙に出たところ意見が削除されたり立候補を認めなかったので、全日通労組を相手に提訴し2度とも勝利したが、今度は労使一体で、制度がある定年退職後の継続再雇用をしなかったので日通を相手に提訴した。社長に直接“会社に尽くした従業員のために、会社のためにも、株主のためにも、顧客のためにも、アスベストなどの問題を早急に解決せよ!”と追求することを考えている。」

いよいよ、頑なで血も涙もない日通を断罪する判決を期待して、ぜひ、6月28日(木)午後1時10分に、神戸地裁尼崎支部3階1号法廷へ支援傍聴に来てください。
第3回、日通の嘘とごまかしに全面反論!
3回目の弁論が2月10日(金)午後1時から数分で終わることが分かっている状況でも多数の支援傍聴の方々が駆けつけ、3人の怪しげなマスクをした日通労務担当者が来ていました。

前回の弁論で女性裁判官から被告に今回期日の一週間前までに成績評価資料を提出するように指示して高野弁護士は提出すると言っていたにも関わらず今回期日が来ても提出がありません。

裁判官は被告に対し「原告の準備書面に対し事実関係を詳細に認否していただきたい」と指示したところ「過去の成績を調査中」と答えたので、「原告(梅川さん)の社内での立場、どういう仕事(業務)を与えていたのか主張して」と言われ、次回を3月23日(金)午前11時30分に、書面提出が3月16日迄と決定されました。

閉廷後、堂島川縁の広場で森博行弁護士から「〝仕事せん〟言うけど、する仕事がない。庄本倉庫に配転されてから1年半程は仕事があったが、顧客が撤退してからは仕事がなかった。倉庫番扱いされ1日1時間くらいの仕事でどうして業務評価できるのか。会社は成績評価書を提出していない。どんな仕事をさせていたのか明らかにせよと裁判官から言われていた。梅川さんは40年間疎外されよく頑張って来た」と解説があり、尼崎アスベスト裁判の支援者から「和解協議に入っているが、日通は難しい」、日通労働者連絡会から「ホームページを見てください」、梅川さんからは「森弁護士のお話や皆さんのご支援で今日の天気のように晴れ晴れした気分です」と笑顔がこぼれていました。

第4回期日

3月23日(金)午前

11時30分

大阪地裁
王寺アスベスト裁判控訴審結審
 昨年9月21日の第1回控訴審弁論が開かれてから、弁論準備を経て、口頭弁論が2012年
2月2日(木)午後2時から大阪高裁82号法廷で開かれ、書面の確認などがあって結審しま
した。

  裁判長は、ニチアスに対し「文書訂正は必要ないので却下する。弁論準備で聞いてい
る。どういう意味で必要性がないかは判決で示す」と説明したあと「4月19日(木)午後
1時15分に判決言い渡し」と知らされました。

  その前に、原告が当日提出の書面を、ニチアスが受け取らないと駄々をこねた場面もあ
り、裁判官から促されて結局受け取りましたが、ニチアスは相当追い詰められていると感
じました。

 閉廷後、同階の待合室で報告会がありました。
 
 A弁護士は「弁論準備手続きでは、裁判官がホワイトボードに書いたりして熱心だ
った。日通から『日通元社員(上司・同僚)を証人として聴いて欲しい』と言われたが、
裁判官は『一審の証拠で判断する』として却下した。ニチアスは『(日通社員が)王寺工
場(内)に居る訳はない』と主張。ニチアスが提出した1970年の粉塵測定データーの濃度
は少ないが、発癌は低い基準で起こることが1960年国際会議でも報告されている(車谷先
生)。ニチアスの提出証拠は『環境改善委員会の記録』であり、少量でも癌を心配して環
境改善を行おうとし、少量での発がん性は認識していたのではないか」

  B弁護士は「ニチアス弁護士が本日提出した反論再確認のための原告書面を受け取らな
いと言ったのは、弁論準備で『従業員陳述書の方が正しい事実だ』と言い張ったことに対
し、『反対尋問がないから証拠性がない』却下されたことの腹いせで、代理人弁護士のニ
チアスに対するパーフォーマンスだろう」

 C弁護士は「悪い結果が出る可能性は低い。良い判決が出ますようにと願っている」
  原告(妹さん)は、「(証拠に)なかなかバシッとしたものがなかったので、弁護団に
ご苦労をおかけしました。今日は極寒の日、7年前の2月に父が死去しましたが、父は寒い
のが嫌いでした。判決を聴きに来ていただけたらと思います」

  原告(姉さん)は、「長かったです。被告書面を読むたびに傷付きます。反論していた
だいた弁護団に、傍聴に足を運んで来て下さった方々に、感謝しています」

 判決は4月19日(木)午後1時15分、大阪高裁82号法廷で言い渡されます。
日通エルダー裁判 第二回弁論
 2回目の弁論が12月16日に多数の支援傍聴と2人の日通労担が着席のもとに開かれました。
前回、女性裁判官から被告に「不採用理由について12月9日までに書面を提出するように」と言われていて準備書面と書証が期限日に提出されたが、証拠説明書をこの弁論当日に提出し、書証(証拠)の訂正もその場で行う有様でした。

 裁判官は被告に「再雇用制度の事実関係については争いが無く、評価の問題。成績評価、業務内容勘案して採用されない。給料・賞与査定に業務評価が表れているとの主張ですね?」と質問し、高野代理人は「過去5年ほどの成績で、日常どういう態度か態度評価もある」裁判官「成績評価やられてる?結論だけ言ってるが?」代理人「やっている。賃金や賞与を受け取ったときに評価が判るが、元資料を出してもよい」とのやり取りがあり、裁判官は「原告より認否反論、被告より資料を出していただいて、整理したい」と締め括り、次回の日程と書面の提出日が決まりました。

 閉廷のあと廊下で森博行弁護士から「梅川は〝仕事できなかった→させる仕事無かった→最低評価〟と言うが、何でそうなったか書かれていない。仕事なければ仕事できない。権利を主張するから睨まれ、労使双方から排除された。全体像を明らかにして反論を出す」と力強い解説!

 支援者の質問に「目標管理評価が実施されておらず、フィードバックが無いので、査定が恣意的」と梅川さんから答えがありました。


第3回期日

2月10日(金)
午後1時

大阪地裁610号
尼崎アスベスト裁判 第15回期日(証人尋問3日目=最終)の報告
2011年11月24日(木)午前10時30分から神戸地裁尼崎支部3階1号法廷において、延べ3日ある証人尋問の最後で、原告側証人の尋問が行なわれました。被告側弁護士はクボタ8人、日通1人で原告側弁護士は4人です。
最初のKさんが、「耳が遠いので大きい声でお願いします」と言ったので、裁判官は大きな声になり、よく傍聴席まで聞こえました。

〔・は原告弁護士、ゝは日通弁護士、ゞはクボタ弁護士の尋問、ёは裁判官の質問に答えて〕

まず、Koさん(被害者と同時期に働いていた元日通小型運転手)
・大物車庫に出勤し行き先が書いてある面着の札を見て(一次操配)、作業担当店所に行き詳しい作業内容の指示を受け(二次操配)、運行作業する。
・被災者5人と会ったことがある。クボタ神崎工場で働いていた。
・クボタ神崎工場では、ピット作業(石綿のカスをスコップで一輪車に積み運ぶ)、ハイ付け(石綿袋を組み合わせて積み上げて行く)、駅出し(トラックで駅まで運ぶ)などをしていた。
・ピットが主な作業で、積卸は手伝いだった。
・石綿原料の積卸は、トラックが2台入って来て、50kgの麻袋を2~3人で作業した。
・トラックの荷台から麻袋を足下に手カギで引っ張り落としていた。破れていたら粉塵が立つ。
・麻袋が、三分の一は破れていて、白い石綿が顔を出し見える。
・ハイ付けは、10本ハイ(タテ6本、ヨコ4本、交互に、170cmより少し高い)。
・昭和31年まではフォークリフトなく、手カギとノンコ(手カギより小さいもの)で、3~4人で作業。
・粉塵が出ているので口にタオルをまいていた。チクチクとして白くなった。
・窓はあったが、換気装置はわからない。防塵マスクはなく、石綿の危険性は教えてもらえなかった。
・年1回の健康診断で、左胸に胸膜クラークが見つかった。
・クボタ以外に石綿は扱っていない。
ゝトラックから卸す時間は小一時間。
ゝ年一回の肺に関する検査をしている。
ゝ健康管理手帳はもらっていない。薬はもらっていない。労災補償はもらっていない。
ゞピットとは、生産過程で水とセメント等の混じった白い泥状のものができるからスコップですくって処分。
ゞ倉庫作業の手伝いは、2日に1回くらい。
ゞ麻袋(ドンゴロス)は、茶色で、40×80cm、50kg
ゞ左手にノンコ、右手に手カギ。
ё一日に4台作業、4時間くらい手伝うことあった。
ё毎日ではない。
ё積卸する前に、大破1割+小破2割=3割は必ず破れていた。
ёトラックが入って来て作業すると、こぼれていた石綿の粉塵が立っていた。
ё危険なものという認識がなかったので会社にマスクなど要求していない。

次に、Hさん(肺がんで亡くなられた元日通運転手の妻)
・左手の甲に手カギでケガをした傷跡があった。
・白く汚れていた作業服を自宅に持ち帰り洗濯していた。
・日通を辞めた理由は、仕事がきつく、汚れが多く、将来考えて市バスへ転職。
・平成16年9月に肺がん手術→(麻酔が切れると幻覚症状が出た)→抗がん剤投与→(食欲不振、嘔吐、倦怠感)→再発→(脚のふらつき、嘔吐)→脳に転移→ガンマ線で小さくして手術→肋骨と骨盤に転移→抗がん剤投与→(胸に刺し込むような痛み)→食べれなくなる→平成19年8月に自宅で倒れ救急車で運ばれ死亡。
・モルヒネを使用すると酷い便秘になり、異常行動で9ヶ月、心身とも疲れた。
・労災申請した。
・タオルをマスク代わりにしていた。
・日通との交渉に夫も立ち会ったことがあったが、お見舞いの一つもなかった。夫が死んで遺影を持って行ったとき、会釈も手を合わせることもなく、「部外者だ」と言われた。
ゝ手術後、医師から「アスベストを扱っていなかったか」は聞かれなかった。
ゝ伊丹労基署は、最初はタバコと言っていたが、手術後は言わなくなり、労災認定を受けた。
ゞ作業服の持ち帰りは何日かに一度だったが必ず汚れていた。当時その汚れが何か分からなかった。
ゞ肺がんになってから、夫からいろいろ話を聞いた。
ゞトラックの上で、ドンゴロスに手カギで穴が開き、髪の毛や鼻の穴まで真っ白になった。
ゞ神戸でトラック積み込み→クボタで取り卸し。

昼休憩後午後から、Kiさん(中皮腫で亡くなられた元日通運転手の妻)
・日通尼崎港支店勤務。神戸港→クボタ神崎工場に石綿を運送。
・作業着の洗濯、白いホコリで真っ白。退職まで続いていた。
・阪神バスに転職(運転手~助役)→退職後、シルバーセンターへ。
・平成11年年11月に中皮腫と診断→抗がん剤→(毛が抜け、吐き気、だるい)→右肺全摘手術→(息苦し)→酸素ボンベを持ち歩き→(食べられない、眠れない、酸素ボンベ管を引っ掛けないようにトイレに付き添い)→右胸膿胸(膿が溜まるから吸い出すが次から次と溜まる)→痰が絡む→(呼吸が苦しい)→かわいそうで見ていられなかったから少しでも穏やかに最後を迎えて欲しいと医師にお願いしモルヒネを投与してもらった→平成12年6月死亡。
・平成17年にクボタのニュースを見て、アスベストが原因と分かった。
・労災不認定→新法で認定→日通に被害交渉で「退職者」だからと話しに乗ってもらえず、「アスベストじゃなくお米か何か運んでたんじゃないんですか?」と言われた。
・会社のために働いて40~50年後に発病で生命を落とした。それを「退職者だから」と・・残念!
・日通もクボタも誠意をもって責任を果たしてもらいたい。
・呼吸困難は不安と恐怖で一杯。
・看病した家族は辛い思いをして発病の不安を抱えて生活している。
ゝクボタから1kmの尼崎の潮江に住んでいたことがある。
ゞ夫から、勤務中から「クボタで仕事をしている。石綿を扱っている」と何度も聞いていた。
ゞ夫から「クボタ神崎工場の倉庫は、白いホコリが舞っている」と聞いていた。
ゞ診断のときはアスベストが原因だとは分からなかった。
ёクボタ神崎工場以外は聞いていない。製品をどこに運ぶとかは聞いていない。
ё日通を退職する前に仕事内容が変わるという話は、聞いていない。
ё給料の歩合制が変わるということで転職した。
ё作業着はほとんど毎日持って帰って来た。
ゝ作業着の汚れに、石綿以外もあったが、石綿が多い。

そして、Cさん(中皮腫で亡くなられた元日通大型運転手の妻で娘も中皮腫で亡くした)
・平成16年12月、夫は脚とお腹が膨らんで、平成17年2月に中皮腫と診断された。
・アスベストを取り扱う仕事していたとは知らなかった。医師から「アスベスト扱ってなかったか?」と聞かれ、夫に尋ねたら「「アスベストを運んでいた」と言った。
・医師から治らない病気だからと自宅療養。息子が薬を与えた。
・私は、メニエルがひどくなった。
・夫は腎臓が悪く、抗がん剤が打てなかった。
・ベッド上でのた打ち回って我慢していた。
・我慢強い人だったが、夫は苦しくて一度だけ「帰れ!」と言ったことがある。
・手、脚、お腹をさすっていた。
・平成17年4月30日死去。おかゆ「うめ~」と言って、ニコッと笑って・・・死んだ。
・マスコミの取材に、夫は「わしが生き証人になるから」と応じた。
・平成19年12月、娘も中皮腫に。娘は「子どものために死ねない」と二人抱き合って泣いた。
・平成20年8月、娘は48歳で死んだ。
・日通は、責任ある上の人が来んと、若い人だけ来て、何も言わない。
・日通とクボタに謝罪して欲しい。
ゝ結婚し尼崎市御園町に一年半住んで、娘はそのとき生まれた。
ゞ夫は、仕事の事は何も話さなかった。
ゞ朝日放送の取材から、夫の話を一生懸命聞き、勉強した。
ゞアスベストはクボタしか運んでいない。
ゞ夫は、日通以外の勤め先も話しなかった。
ゞ日通を辞めた理由は、明石に住んでいて通勤がしんどいと近くの会社に転職した。
ё共同住宅だったから、洗濯場も共同で、作業着を持って帰らなかった。
ё一度だけ、黄土緑色の作業着を娘に見せるために持ち帰ったことがある。
ёシャツ、パンツ、靴下、タオル、私の下着、娘のオムツを大きいタライで下洗いして共同洗場で洗濯。
ё私は、毎年レントゲン検査しているが、今のところ問題ない。

最後に、Oさん(肺がんで亡くなられた元日通大型運転手の妻)
・尼崎港→神戸の倉庫で積んで→クボタ神崎工場で卸す。
・ドンゴロスに入っていた。手カギ、粉塵舞い上がり、耳穴、鼻穴、全部真っ白になった。
・作業服は持ち帰らず、会社で洗濯していた。
・タバコは吸っていない。
・平成13年暮れ、咳が止まらなくなり、右肺に影があり肺がんと診断→平成14年4月25日手術。
・同年6月中頃から、熱が出て、息苦しく、日を追うごとに悪くなった。肺炎も起こった→食欲なく、倦怠感、もの言いにくくなった→息苦しく、酸素吸入→死去。
・「家に帰ってゆっくりしたい」叶わなかった。
・クボタショックで、労災申請。
・日通は、在職証明すらしなかった。証言もらって労災申請した。
ゝ在職中の定期診断で異常はなかった。
ゝ労災の受給額は?(こんな質問をして、日通弁護士は傍聴席から顰蹙を買っていた)
ゞ作業内容は、夫から直接聞いた。クボタで卸す。青、茶、白の石綿。
ゞ30年間で、ミツカン酢、フライアッシュ、アスベストの仕事をしていると在職中に聞いていた。
ゞ入浴は、日通大物車庫に浴場があった。
ゞレッカー車も乗っていたが、細かいことまで覚えていない。
ゞ3~4年に一ぺん検診しているが、私と子どもに異常は今のところない。

 以上で、すべての証人尋問が終わり、裁判長から、「最終準備書面を2月15日までに提出して3月1日(木)午後1時15分からの弁論で結審します。その前に、和解の可能性あるかどうか、12月26日午後3時に和解期日を設定します」と、説明があり、確認されました。

 閉廷後、敷地内で、報告ミニ集会があり、
 弁護士から「裁判所から和解案提示あると思うが、3月1日に結審し、判決はそれから3~4ヶ月かかるだろう」。 原告から「墓参りして臨んだ」「単語が出なかったが思ったことは言えた」「半分も三分の一も言えなかった。もっともっと言いたかった」「歯がゆい気持で一杯」「いい方向に向かうことを期待して」などの言葉があり、今西元全日通尼崎港分会委員長から「胸が痛む気持ち、当時、職場を知っている方が入院していたりして、何しろ40~50年前のこと、職場を語れる人を証人になってもらい、今日を迎えた。成果を出さなければいけない」、職場の問題を取り上げて声を上げたことで定年退職継続再雇用を拒否された梅川さんから「遺族の方々の証言を聞いて、日通は何と酷い会社か!と改めて思った、私も共に闘いって行きたい」と、勝利を確信しあいました。


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